昨今のひきこもりの事件をひきこもり10年選手が考えてみる。

ひきこもりが殺したり殺されたりしている。

 

で、これをどう捉えるべきかと言えばだ。

 

単純に考えると個人が責任が責任を取れ派

社会や環境がまずいんじゃないの派

 

がいると思う。

 

どこかの誰かが、「死ぬなら一人で死ね。」

と言う。

 

しかし自殺する人間というのは基本的に不幸せな人間なのだ。

つらくてつらくてつらくて自死する。

そのほとんどは誰も犠牲にせずに。

 

死ぬなら一人で死ねという人間たちはまさに自殺する人たちの加害者である。

偉そうなことを言いながら、辛くて辛くて辛い人間達がいることを知りながら、何にもせず、ただ一人で死ねと要求する。

 

だからまだまだこういったことは起こるし、死ぬなら一人で死ねと公言する人に殺意を抱くのも全然おかしいとは思わない。

むしろそういう人間を殺した方がこの社会の「私は頑張ってきたし、苦しんできたけど立派にやっているという、それができないくずがひきこもりだろうなどという何もかもずれている」感覚を持っている傲慢な人間に気づきを与えるかもしれない。

 

啓蒙的殺人。確信犯的殺人。

 

別に殺人補助をしているわけではない。

 

ただしはっきり申し上げたいのは、人間というのは生まれてからずっと他者に影響を嫌だろうとなんだろうと受けているということだ。

 

親や友だち、上司に恋人から国家、そして社会環境、社会情勢というありとあらゆるものが影響して人格を形成している。つまり本質的に自己に責任などないのだ。

 

誰かが誰かを殺した原因を見つけるというのはあまりに短絡的な考えで、そんなものは生まれてこの方すべての外部的要因としかいいようがない。

 

だから死刑というのも社会が取る責任のとり方としてはかなり乱雑だと考える。

言ってしまえばありとあらゆる犯罪どころか、ありとあらゆる選択は個人が決定するが、その個人を形成しているのは外部的要因なのだから、個人にすべての責任を押し付けるのがその外部的要因の主だったものというのはどう考えてもおかしい。

 

人の命は社会のものだという考えなのかも知れない。

 

いじめられて死んだ人の原因はいじめで本人に責任がないだとか可愛そうというのなら、人を殺傷してその後自死した人間だって可愛そうという論調にならないのはなぜか。

 

どんなことがあろうとも人を傷つけてはいけないというのなら、私やその他すべての人がなぜ傷ついているのだ。

わかりやすい暴力だけを暴力だと考えるからあまりに幼稚な論理でものを考える。

 

 

 

日本人の15歳から39歳までの死因の第一位は自殺である。

 

つまりこれは一般的に若者と言われる世代だろう。

 

若者がどれだけ絶望しているか。少なくとも私が輝かしい日本の未来など聞いたことはない。

 

年金と社会保障で税収のほとんどが消えているくらいしかね。

 

さて

 

自殺する原因は様々だし複合的なものだと思うが、自殺をする人間は基本的に事態は好転しないと思っている。

 

つまり、自分ではもうどうにもできないし、誰も助けてはくれないと思っている。

 

これがひきこもりが長期化する原因だ。

 

今回の児童を複数人殺傷した事件を受け

アホな、(決して警察を貶めているわけではない。ただ本当に費用対効果という感覚のない人達だからこう言わせてもらう)

警察の皆様が、パトロールしているとか聞く。

 

そんなことをしてもどうにもならない。

 

そんなことよりも現実的にどうするか。

 

つまりひきこもり達とコミュニケーションをとらないといけない。

 

パソコンもない。テレビとゲームのある部屋で、一人つらいのを我慢している何十年も引きこもっている人間とコミュニケーションを取らないといけない。

 

つまり、どうにもできないよね。

 

ということだ。

 

考えてもみてほしい。

 

事務次官にもなった男でも自分の息子を刺し殺すしか手が打てなかったのだ。

 

ひきこもりと言っても本当に様々なんだ。

 

それこそ外部要因が違う。

 

ゆえに人格も違う。

 

つまり解決方法も違う。

 

どうにもならんだろう。

 

根本的に既存のアプローチ方法では少なくとも無理だろう。

 

これは児童虐待にも似ている。

 

つまるところ、「家庭」に介入しづらいのだ。

 

何の権利があって、何を根拠に家庭に介入するのか。

 

そして介入した後に責任をどう取るのか。

 

いろいろ考えるが、現状の日本のリソースと能力ではおそらくできないことが現実的な解決策となる気がするのであった。